それでも心に残る美しい和歌を詠んだ人【崇徳院】

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こんにちは、わさびです。


皆さんは和歌や俳句は好きですか?


私は日本人だからなのか、和歌の「五.七.五.七.七」の調べが大好きです。


初めて和歌を知った時、私はまだ小学生でしたが、ハマりすぎて百人一首の本まで親に買って貰ったのを覚えています。


その後、意味も分からずに、百人一首に入っている全ての和歌を一生懸命に覚えましたが、いろいろあって自分の人生すら忘れてしまいました。(苦笑)


そんな私がとても気に入っていた歌があります。


瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ


この歌は、小学生で覚えてから、一度も忘れる事なく、今でも私の一番好きな和歌の一つです。


さて、皆さんはこの歌の意味をご存知でしょうか?


大抵の本やネットのサイトでは、これを恋愛の歌として現代語訳していると思います。


なので、私もずっと切ない恋の歌だと思っていました。


【現代語訳①】
この滝の急流が岩によって二つに分かれてしまってもその先で再び出会うように、今は離れている(しまう)大好きな貴方と必ずまた会いたいと願うよ


こんな感じですね。


しかし


数ヶ月前、私はこの和歌を詠んだ崇徳院(崇徳上皇)の悲しい生涯を知りました。


そして、この歌の意味をもう少し大きく捉えている人達がいるという事も知りました。

崇徳院の悲しい運命

崇徳天皇は、平安時代に後白河天皇と保元の乱で争った第75代天皇です。

※ややこしいので、当時「法皇」だった方も「上皇」だった方も全て「天皇」と書かせて頂きます。


崇徳天皇はわずか数え5歳で即位しましたが、20歳過ぎには退位をしています。


何故こんなに全てが早いのかと言うと、崇徳天皇は、曽祖父の白川天皇にはとても愛されていましたが、父親の鳥羽天皇にはひどく嫌われてしまっていたからなんですね。


この状況だけでも、幼い崇徳天皇の複雑な心境と難しい立場を想像する事ができます。


では何故、鳥羽天皇は崇徳天皇をひどく嫌ったのか


実は、崇徳天皇の本当の父親は鳥羽天皇ではなく、白川天皇だと噂されていたからだそうです。


そして、鳥羽天皇も噂を信じてか証拠があったからか、崇徳天皇を「叔父子」と呼んでいました。


そんな噂のある崇徳天皇は、退位してからも鳥羽天皇からたくさんの嫌がらせを受けてしまいます。


鳥羽天皇は、自身が崩御する直前でさえ、お見舞いに来てくれた崇徳天皇を追い返したそうです。


どこまでも嫌い、嫌われていたのでしょうね。


たとえ噂が本当だったとしても、崇徳天皇には何の責任もないだけに可哀想になってしまいますよね。

 

心の限界

鳥羽天皇の崩御後、崇徳天皇は弟である後白河天皇と対立してしまいます(保元の乱)。


そしてその争いに敗れて、崇徳天皇は上皇という高い身分だったにも関わらず、罪人として讃岐国(香川県)に配流されました。


天皇や上皇が配流されるのは、淳仁天皇以来で約400年ぶりの事だそうです。


しかし、讃岐国での崇徳天皇は仏教に深く傾倒し、経典を書き写したり和歌を詠んだりと静かな時間を過ごしています。


ある日、崇徳天皇は3年かけて写経したものを戦死者の供養のために京のお寺に収めてほしいと朝廷に差し出そうとしたそうです。


が、朝廷は呪詛を疑ってこれを拒否します。


そして遂に、嫌われ過ぎてしまった崇徳天皇は心を完全に壊してしまいました。


自ら舌を嚙み切り、その血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き、死ぬまでずっと爪を伸ばし続け、髪を切らず、夜叉のような姿になったとされています。


そして、讃岐の地で46歳でその生涯を閉じました。

 

怨霊伝説

朝廷は崇徳上皇の崩御に対しても冷たく、讃岐国司による葬儀が行われただけでした。


しかし、崇徳上皇が崩御した後、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀などの様々な災厄に立て続けに見舞われた事から、崇徳上皇の怨霊が意識されはじめます。


そして朝廷は、ようやく崇徳上皇の魂を鎮める対策を始めました。


私は現代人なので、怨霊などはやはり信じない人間なんですが、この崇徳上皇に関しては怨霊にでも何にでもなれば良いよと思ってしまいます。


扱いが酷過ぎますよね。

 

和歌の意味

しかし、崇徳上皇は怨霊になるような恐ろしい人物ではなかったのではないかと私も思っています。


それが冒頭にご紹介した和歌


瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ


のもう一つの意味に繋がります。


【現代語訳②】
この滝の急流が岩によって二つに分かれてしまってもその先で再び出会うように、今は分かれてしまっている天皇家がひとつにまとまり、再び大きな川となりますように


もしもこの歌が、自分を否定し続ける父や弟に対して詠まれた和歌だったとしたら、その胸中は察するに余りあります。


しかし、崇徳院は誰ひとり自分を理解してくれない運命の中で、以下のようなほのぼのとした和歌も詠んでいます。


朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ 咲きはじめける


【現代語訳】
朝も夕方も一日中開花を楽しみにしていたら、夢の中で桜が咲きはじめちゃったよ


崇徳院の和歌は、1000年後を生きる私達の心にさえ深く優しく響きます。


それは、単純に崇徳院が素晴らしい歌人だったからだけではなく、その人柄が滲み出ているからだと私は思います。